母が危篤
そんな連絡を受け駆けつける途中いろいろなことを考えていた。
私は、親孝行できただろうか?このまま最期の別れになったとき
後悔はしないだろうか?
親孝行ってどんなことをいうのか?
心配をかけない。いつも気遣ってあげる。プレゼントをする。
旅行に連れて行ってあげる。etc・・・そんなことは結構していたと思う。
進学も就職も進路は自分で決め高校は授業料免除、奨学金を受けた。大学も自分で出た。結婚にしても全部自分で決め費用もすべて出した。親に心配をかけたり相談することはほとんどなかった。しかし
彼女のせいでいつも足を引っ張られていたように思う。
実の父を知らない私。3歳から17歳くらいまでの義父である妹の父。
その人の感情の赴くままに可愛がられたり、怒られたりしていた子供のころ。
夫婦喧嘩が絶えなかった。いつも義父の顔色を見て育った。
今で言えば虐待だった・・・
19歳くらいからの二人目の義父。やっと家族3人で暮らし始めたのに。
なさぬ仲故に曲がった感情。義父方の10歳以上も年上の兄妹3人との確執。
私は、絶対富山では人生を送らない。いずれ富山を出る・・・とそう決めていた。
結婚によりそれが実現。しかし結婚式を目の前にして
二人目の義父と母は別れることになった・・・仮結納までは一緒だったのに・・・
婚家に合わせる顔がなかった。それなら始めからいなければよかったのに。
やるせない気持ち。持って行きようのない怒り、切なさ。今でも鮮明に
よみがえる。
しかし私はその時母を責めたり、そんな悲しい自分の気持ちを伝えていなかった。
今思えば、そのときにきちんと自分の気持ちを伝えることが大切だった。
それ以前のことも含めて自分の気持ちを伝えなければわからないのに。
カウンセラーの勉強をして始めて理解した。でも
どんな風に伝えてよいかわからなかった。
幸せなことに主人の両親は私に何を言うことなく受け入れてくれた。
そのときのことで、私は今だかつて嫌味や小言を言われたことがない。
実にすばらしい両親。主人も同じ。いつも心から感謝している。
母がとてもよくできた人で、明るくて面倒見がよく
嫁姑のいざこざは一切なかった。私の未熟さ足りなさを責めることなく
諭してもらっていたように思う。
そんなだったから余計に、母に私の気持ちをぶつけることなく
過ぎてきた。
結婚式の前後しばらくは縁が切れていた二人目の父。いつの間にか母と縁りが
戻っていた。婚家にますます合わせる顔がなかった。
義父に対しても母と妹のために何も言わずガマンした。表面では何事もないよう
に取り繕った。すべてを深い悲しみの中で心の奥で受け止めた。
でも母のおかげで3人の子供たちを金沢・東京・札幌で出産するときは、最小限の範囲だったが手伝ってもらえた。
出産のときは母に対する感謝の念が溢れた。
孫たちにもいろいろ気遣ってくれた。
ただ、私の中にあるいろいろなトラウマ。無意識の領域にある固定概念。それは
母の生き方により呪縛にあっていることが、カウンセラーの勉強をしてきて
理解できた。私も無意識にしていたこと。
「こんなことを言うと相手を怒らせてしまうかもしれない
喧嘩になるかも・・・嫌われるかも・・・」と思うといえなくて
心の中にガマンという形で仕舞い込み、しかし「物言わずは腹ふくるる技なり」
いつか爆発してしまって、結局は相手を傷つけてしまうことに。最悪の状態にな
る。
では、どのように伝えたらよいのか。
私は・・・・悲しい。辛い。淋しい。主語を「私は・・・」で始める。
「Iメッセージで伝えること」が大切。このことはこれからまた・・・
私は、こんな自分の生い立ちを今まで人に言えなかった。思い出しただけでも
涙が溢れて仕方がなかったから・・・話すことができなかった。
そしてこんな恥ずかしいことを
私の身に起きていたことを言えなかった。恥だと思っていたから。
ある方がお会いしたばかりのころ「登美子さんは、いい育ちをしはったんですね」と言われた。そんな風に思われることが多くて余計のこと言えなかった。
こんな恥ずかしいこと悲しいことは一切
「なかったこと」として心の中に封印をしていた。母の人生を私は恥だと
思っていたことになる。否定していたことになる。しかし
そんな考えは間違っていた。母は彼女の人生を一生懸命に生きたのだ。
恋愛の価値観はそれぞれ違う。恋愛心理学で学んで実感した。
それを評価することは私にする必要はない。そんな資格もない。
ただ母の人生を参考にして私のこれからの人生を考える。私の人生を生きること
が大切なのだと思った。私と母は別人格。母は母。私は私。そんなこと考えたら当たり前のことだが固定観念の中でグルグル回っていた。
小康状態が続いている母の病院を抜け出して、娘と富山の美味しいお鮨を食べに
出かけたときに、こんな話を初めてした。
娘はびっくりしていた。「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
「もっと言ってくれたらよかったのに・・・」「でも、そんな辛い思いをしているのに
ママは明るくて前向きだよね。どうして?」って言ってくれた。
「パパのおかげだよ」とやっと一言。
ちょっと前までは、こんなことを口にしようとすると涙が溢れ出てどうしようも
なかったから話すことができなかった。もちろん心の封印をしていたことも
ある。私は生まれてからず~と幸せに過ごしてきたのだ。そんな惨めな思いなんてしたことがない。。。そう思いたかった。
そんな女優を演じ続けていた。
私自身に産業カウンセラーを昨年つけた。3年前からN氏に経営コンサルタント、
昨年夏からY氏に産業カウンセラーをお願いしている。
産業カウンセラーはこれからの私の仕事の方向性を見つけるためだった。なのに
私の心の封印を解くカウンセリングになったのだ。
自己開示して自己一致しなければ方向性も定まらない。自分自身がカウンセラー
にもなることができないと理解した。
もっといろいろなことを話したが、あまりにも涙が出て仕方がなかった。しかし
1回それを乗り越えてしまえば少しずつ自己開示が他の人にもできるようになっ
た。いままではその反応が恐かった。
「あの人こんな生まれなんだって・・・」「あの人のお母さん、こうなんだって
・・・」と陰口を言われるような気がしてイヤだった。
まだまだ家柄や学歴や肩書きで評価する社会だと思っていたから。
自分の素をそのままに出せる人間関係。それを「良い・悪い」の評価ではなく
そのままを受け止めてくれる信頼関係。私が信じていないから、恐れているから
相手からも
信頼関係を持った関係性ができないのだと思った。
昨年からの産業カウンセリングで、「心の封印」を解くできごとができた。そし
て今回の「母の危篤騒ぎ」でしっかりと見つめてみることにより一つの区切りが
できた。
今だから言えることかもしれないが、母に感謝である。
今日は、長男の誕生日である。母の命日にはならなくて良かった。
母の枕元で、孫たちが「おばあちゃ~ん」と大きな声で呼びかけて
お互いに反応があったように感じた。「おばあちゃん、今返事したよね」って皆
で空気を感じた。
仕事も休んで皆が飛んできて良かったと感じた。
それでも主治医には、こんな状態になったら2~3日と言われた。
22日は、新潟で子供たちの従兄弟の結婚式がある。その前に母の葬儀で
また、迷惑をかけたくないと言う気持ちが働いている。なんとか4月まで
持って欲しい。
皆で「おばあちゃんね~。3月みんな忙しいからさ、4月までがんばってよ。
桜が咲くまで待ってお花見しようよ」と次男が声をかける。
どっと皆で笑う。ナント母の血圧の数値が121まで跳ね上がった。
「おばあちゃん聞こえてるかも!!」ってまたみんなで声をかける。
もう少しみんなの心の準備ができるまで頑張って!!
私も月末の日本メンタルヘルス協会の研究科の修了式に出席しなければ
カウンセラーの資格授与が1年延びることになってしまうから
祈るような気持ちで病院のイスを並べて二晩目をすごす。
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